裸足考 (演奏の環境を考える その12)

歌うときになぜか裸足になるタイプの歌手がいる。
なぜかほとんどが女性である。歌姫とか呼ばれている。
今まで私はあの一部の歌手の裸足になる習慣が理解できなかったのである。
誰が元祖だか知らないが、一時期このタイプの歌手がたびたび現れた時期があった。
たぶん、15年位前ではないだろうか。
私はそのタイプの歌手のファンになったことがなく、興味もあまりなかったのだがそれでもテレビなどで見かけるとつい疑問に思ってしまうのだった。

そもそも、裸足になることはどうしても必要なことなのだろうか。
やむをえない理由があって靴を履いて歌うことになったらどうなってしまうのか。
なぜ、男性歌手ではあまり見かけないのか。
いつ裸足になるのか。裏では普通に靴を履いているのか。
歌う際に楽なことを追求するなら裸足よりノーブラなどほかの方法もあると思うのに、なぜ揃って裸足なのか。
いっそ半裸で歌ったらどうだろうか。
などなど。
(ノーブラに関して言えば、現在はカップ付き下着などのバリエーションが発達しており、実践している人がいるかもしれないが、見た目にわからないことが多く、安心である。また、歌うときに半裸の人もいるかもしれないが、テレビでは映せないだけかもしれない)


まあ、そんなわけでつい疑問に思って音楽以外のことで気が散るので、好感を持つか持たないかといえば、ないほうだったと思う。
それにしてもなぜ男性ではほとんど見かけないのか。足がくさいから?でもくさいのは男女関係なく個体差であるし、何なら裸足になる直前によく洗えばよろしい。足の見た目がごついから?すね毛?これも個体差や手入れしだいだと思う。
しいて言うなら男性はパンツスタイルであることが多く、ハーフパンツや浴衣などであれば裸足でもそこまで浮かないかもしれないが、裸足になると違和感のあるファッションをしていることが多いからかもしれない。そういえば、裸足で歌う女性はワンピースなどゆったりした服装が多くパンツスタイルはあまり見かけないように思う。それ以外にもジェンダー的な何かがあるのかもしれないので興味深い。

ここまでは全部前置きである。
私自身のこととして、このように裸足の歌手についてはさまざまな疑問を持っていたにもかかわらず、ギターの足台について今までいろいろ研究する過程で、足台を使用する際は靴を脱いだ方が自由度が高いことに気づいたのである。
特に、両足を足台に載せる場合、足台の天板の面積は限られており、靴を履いていると足の面積や体積、重量が増えるわけだから足の置き場が限られてくる。また、足台がどっしりした素材であればまだマシなのかもしれないが、プラスチックの折りたたみの台など軽い足台の場合、姿勢の点だけではなく足台を倒してしまわないかなどなんとなく不安な感じもした。それが靴を脱ぐことによって足の置き場が増えて自由度が上がり、しかも足台とのフィット感も増したのである。
とはいっても、私は外ではほとんど靴下を履いていることが多く、足台から足を下ろす際には靴を履くので、裸足の歌手とは靴を脱ぐ目的や目指す効果は違うものだと思っていた。

ところが、ある本で読んだ話を思い出した。
その本によると、足元は精神状態が無意識に現れやすい場所であり、足元の安定は心の安定につながるのではないかということであった。その根拠としてデスモンド・モリスの「マン・ウォッチング」の記述が引用されていた。(人や動物の本心は顔から遠い下肢や、赤面などの自律神経の現象に表れやすい、という部分)学生時代「マン・ウォッチング」は写真や図版が多くぼーっと読むのには最適であり、空き時間に図書室で時々眺めていた身としてはやや強引な解釈だとは思ったが、こういう説もあるということで納得した。(最初に引用した本はビジネス書的な側面もある本で、ビジネス的に足元の行儀をよくさせたいという目的も感じたので、特に害はないけどそのあたりも差し引いて考えていたければと思う)

私は弾き語りの際に足元の安定を求めて足台などの研究をしてきたが、演奏時の心の安定を求めていたという部分は否定できず、その説を思い出して、たしかになるほどと思う部分があった。
それで、裸足の歌手の皆様も、心の安定を求めているという意味では同じなのかもしれないと思った。足指でステージなどを踏みしめることによる安定というか、そのあたりが裸足になる目的なのかもしれない。もちろん、人によっては楽だからとか、憧れの歌手がやっているからとかほかにも理由があるとは思う。

とはいっても、椅子に座って演奏するタイプの弾き語りの人では、靴を履いている人のほうが圧倒的に多いし、足を組んだり、椅子が高かったりして足元が不安定な人もけっこう見かけるわけで、心を安定させる方法は足元だけにあらずということは分かりきった問題である。そのコツは何なのか。そのあたりは今後も研究していきたい。

足台考8(演奏の環境を考える その11)

以前に100円ショップのセリアでプラスチックの折りたたみ椅子が売っていて、ギター用の足台に使えるかも?という記事を書いたが、他の100均チェーンでも見つけたので、つい買ってしまった。
キャンドゥで折りたたみステップとして売られているもので、カラーはピンクとブルーの2種類あった。
これ、とにかく小さいのである。(高さ13×幅21,5×奥行き17センチ)

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手前の2台がキャンドゥの折りたたみステップ。奥の茶色いのがセリアの商品。かなり小さいことがわかる。
 
私の求めている足台は20センチくらいの高さのあるものなので求めているものとは違うと思ったが、その大きさはこの前持ち歩きづらさに閉口したので、コンパクトさに感動してつい買い求めてしまった。
 
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この写真の一番大きい水色のものがこの間持ち歩いたもの。ピンクの小さいのが今回買ったもの。これくらいコンパクトで、使いごごちもよかったらなあ・・・
 
セリアのプラスチック椅子に比べても小さいが、コンパクトなだけではなく耐荷量は10キロ多い60キロで、さらに裏に滑り止めが付いているのがメリットだと思う。
小ささには感動したので、どうにかギター用の足台として使えないか検討したところ、ふつうに1台だけ使ったら物足りなかった。そこで、右足と左足に1台ずつ使って足を開いたら、使用感は悪くなかった。しかし、私はピンクとブルーを1台ずつ買ったせいもあり、左右がちぐはぐでひどい見た目であった。色を統一したら少しはましになるだろうか。・・・たぶんそういう問題ではない気がする。
低い足台を求めている人にはいい商品なような気がする。私は足台としてではなく、コンパクトな折りたたみの椅子として使用したいと思う。

7月

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やっと7月分に入った。

今日が何日かはあえて書かないが、このブログは日記的な意味はあまりないので、日付は気にしないでください。 
とはいいつつ、湿気がすごかったり暑かったりするととたんに意欲がなくなるのでそれを何とかしたい。

足台考7(演奏の環境を考える10)

折りたたみプラスチック踏み台=例の足台を初めて人前で使ってみて思ったことをまとめると

・意外と持ち運びはかさばる
・使いごごちは申し分なく、足元の違和感がなくなって演奏に集中できる
・思ったほど人からその存在をつっこまれない

という3点であった。

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(左側が折りたたみプラスチック踏み台=例の足台)

 

持ち運びは、けっこう大き目の袋に入れないといけないため、ギターや他の荷物と一緒だと電車などでわりとかさばるということが分かった。折りたたんだ際の面積は縦29×横33×厚さ3センチほど。(台形なので一番大きいところを測った数字で、もちろん素人計測です)厚さはそんなにないわけだから、入れる袋を工夫するなどすれば、もう少し快適に運べる気がしないでもないので研究したい。

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これがたたんだところ

 

この足台の使いごごちについては、本当に今までの足台に比べて演奏するのが楽だった。人間の力は限られていて、私は非力なほうなので足に力を取られていると、演奏にかける力が減ってしまいもったいないと常々思っていた。演奏に集中する上で、足元の環境を考えるのは決して間違った方向ではなかったことを再認識した。

 

また、人からその存在をどう思われるか気になっていたが、ブログを見たと思われる方以外からはそこまで指摘されなくて、意外と目立たないかも?と思った。あまり目立つのもどうかと思うので、とてもよかった。

 

※この足台を使用したついでにもうひとつ気づいたことがあったのと、あと「あれを書かないのか」という指摘をある方から受けた内容があるので、この後7月になって新シリーズを書こうと思っていたのですが、このシリーズが少し続きます。

6/29ライブでした

6月29日は三鷹おんがくのじかんでライブでした。聞いてくださった方、ありがとうございました。

例の足台を初めて人前で使ったところ、このブログを読んでくださったと思われる方以外からは意外とつっこみはなく、今後も普通に使えるのでは?という希望が芽生えた。(足台については感想を別の記事で書きます)
立派なライブレポなどを書こうとするとどつぼにはまってしまうので、自分のことをとりあえず。

セットリスト
1つちのこ掘り
2ヘビーな恋
3らくだの森
4柳の木の下で
5天気雨
6砂漠の舟
7どろぼうひげ
8塩サウナ
で、出演順1番目、30分で8曲演奏して、淡々と演奏することを心がけたはずが、「攻めていた」という感想をいただくことができた。(心当たりが少しあります。私はポーカーフェイスを目指したいです。ありがとうございました)
いつもは時間の関係で用意してきた曲より1曲減らすことが多いのに、このときは8曲でちょうど30分演奏できて、やればできるということがわかった。

今までなるべくアウェイな環境で演奏するようにしていたので、共演者や客席に知人の方が多いという環境ははじめてで、とても勉強になり、修行の場のバリエーションを増やさないといけないと思った。


今回私が出演することになったのは2番目に出演のsprawlworldさん(私の大先輩)のすすめによるもので、そのようななりゆきもあり今回はsprawlworldさんが仕事帰りの関係で私のギターを使用して演奏することになったため、いろいろと観察することができた。私より手などが大きいので、私のレディースサイズのギターが若干小さく見えたが、その分左手のフォームなどに余裕があり、いつもよりも淡々と演奏されているようだった。特にギター伴奏が難しい「ポインセチア」などの演奏には普段見るほどの緊迫感がなく、ほどよく力が抜けていた。顔つきも埴輪のように無心に見えたが、心では戦っていたそうで、とても素敵だった。

3番目に出演された月原昌子さんは、毎日曲を作ってネットに上げているという努力家であり、私が弾き語りの初心者でオリジナルをなかなか作れなかった際のみっともない様子を目撃していらっしゃる数少ない方でもあり、演奏を初めて生で聞かせていただけてうれしかった。最初の曲は長編で、後が短編。短編はギターで遊ぶような感じで作ったのかなあという軽やかなノリの伴奏と、意味深なような、単なる呟きのような歌詞が独特の世界を作っていた。最後に「にゃ~」と鳴き声があったり、遊び心もたっぷり。また、メロディの繰り返しなどが少なく、一般的な長さと思われる3~5分くらいの曲がないのが逆に新鮮だった。


※どつぼにはまるので、他の初対面の共演者の方の感想は割愛させていただきます。なにかの機会に触れることはあるかもしれません。ありがとうございました。

7月の予告とライブについて

今月書いていたギターの足台の話に続き、7月からは、ギター本体のことか、ナイロン弦についての私の研究のシリーズを書き始めると思います。

私の性質上毎日更新できるかはわからないですが、今みたいにまとめて数日分更新するような感じなら可能かもしれないので、ブログの方向が定まるまでなるべくたくさん更新しようと思っています。

6月29日は三鷹おんがくのじかんでライブです。
例の足台を人前ではじめて使います。楽しみ。

映画「セシウムと少女」について

少し前に見た映画だが、マイナーな映画と思われるので何かの参考になればと思い、感想を書き記しておく。

この映画のタイトルは知久寿焼さんが同名のテーマ曲を作るということではじめて知ったのだが、第一印象としては「直球だなあ」ということであった。そのタイトルから想像されるのは「いかにも」な反原発であり、反原発のよしあしについてはともかく、私は音楽に政治的なイデオロギーを持ち込む行為が好きではないので、その時はそこまで興味がもてず映画を見に行くかはあやしいところであった。

ところが、この映画は主題歌の知久寿焼さんだけではなく原マスミさんもナレーションで参加しており、5月7日に知久寿焼さんと原マスミさんによる映画の公開を記念したライブが行われるというので話は変わってきた。このお2人だけで出演するライブというのは、たいていは最後がセッションコーナーであり、お2人のすばらしい競演がかなりの確率で予測されるからである。頻繁に見られるものではないので、私は東京ではなくても機会があれば可能な限り行くことにしている。それが阿佐ヶ谷ラピュタで。行かないわけにはいかなかった。

その時のアンコールで披露された「セシウムと少女」の演奏の動画がyoutubeにあったので貼っておく。www.youtube.com


セシウムと少女」は私はその時初めて聴いた。また、お2人で人前で披露するのはこのとき初めてだと思われ、めったに見られない機会でもあるけれども、シンプルな曲ながらその迫力ある演奏から映画を宣伝しようという熱意が伝わってきた。歌詞の「恥ずかしい」とは何に対してなのかなど、つい深読みしたくなるけれど、セシウムだけではなくもっと広い世界を描いている気がして抵抗は感じなかった。でも、映画にもぴったりだった。

また、ライブ開始の前に監督と主演女優さんも呼んでのあいさつがあったが、監督の才谷さんは応援したくなるたたずまいであったし、主演女優の白波瀬さんは後で映画を見たらその主役のイメージどおりの真面目そうな高校生で、ライブの会場で、夜遅くなる前に「明日は学校なので帰ります」と宣言して帰っていく姿を見かけて、どちらも好感を持った。

ライブ会場で前売り券が割引で売られていて、ユジク阿佐ヶ谷での上映時間を調べたら仕事後に寄るのにちょうどよさそうだったので、素敵なライブを企画してくれたことの感謝を込めて、せっかくだから行くことにしたのだった。

行ったのは5月半ばの平日であるが、小さな45席の映画館で、私以外に3人連れしかいなかったので快適であったが少し心配にはなった。

内容としてはセシウムの話は冒頭と後半に集中している。勉強はできるけれど融通がきかずに学校に友達のいない主人公が、ひょんなことから現代に生きる七福神と知り合い、その手助けで祖母の九官鳥探しを通じて過去の祖母に会ったり、その祖母の尊敬する詩人、北原白秋に会ったりする。セシウムの話題はその話の前後に唐突に出てくる感じではあるが、そこまで押し付けがましかったりヒステリックという「いかにも」な感じはしなかった。押し付けがましい内容ではないというのは、監督のあいさつを聞いたときにその雰囲気からなんとなく直感していたことであった。

七福神が登場するたび間にはさまれるアニメーションは、その道で有名なアニメーション作家によるものらしいが、その方面に詳しくないので、突然始まる白昼夢のような印象を受け、この映画のタイトルの直球な感じをやわらげていた。

主人公と七福神セシウムについて調査をしたり、語り合ったりしている場面から私が感じたのが「学校で浮いている真面目な女の子が反原発などの運動を通じて理解のある大人たちと知り合って、世界が広がり自分の居場所を見つけた」というストーリーであって、神様とかそういう話が関係ないとしたらだけれども、こういう見方もあったということで書いておく。

原マスミさんのナレーションは主人公が学校で浮いているなどのつらい場面でもあくまでとぼけた味があり、救いであった。最後に知久寿焼さんの主題歌が流れるのも、映画を最後まで見る大きな楽しみであり。聴くとそれだけで満足感があった。映画で使用されている音源は、知久さん以外にもミュージシャンが多数参加して作られたもののようなので、ぜひCDなどで販売してほしいと思った。

7月17日まではユジク阿佐ヶ谷での上映が決まっているそうなので、興味のある方はぜひ。
映画「セシウムと少女」オフィシャルサイト